5thway、第5の方法を完全に説明するのは難しいことです。実行するのは本当は簡単なことなんです。他でもない、自分自身に戻ることですからね。翻訳しブログに載せようとも思いましたが、長いのであきらめて、個人的な解説をすることにしました。

5thwayは実は決まったやり方や、特定のプロセスのことではないんです。ただ、いま、この瞬間に自分自身でいること。それだけなんです。

自分自身でいて、そこにある問題や感覚をただ眺めているだけなんです。そう、当サイトで翻訳しているレクチャーの中で、レスター博士がよく言っていることです。

体-心-自分自身のつながりはよくご存じの方も多いでしょう。自分自身は体でもなく、心でもない。体はこの実世界で行動する道具に過ぎず、心は実世界を創り出している創造装置、実世界は幻に過ぎず自分が創り出したものであり、自分自身は不滅の存在である。ヨガを初め、宗教や哲学でも扱われます。レスター博士がメソッドを教えだしていた同時期に発生した新興宗教から、自己啓発、さらにニューエイジと呼ばれた方法まで、あちらこちらで言及されています。

たぶん、それらは単純に同じもの、同じ現象を指しているのでしょう。ただ、それを伝える人が違い、話す言語が違います。その人自身は「自分自身」であると同時に、他の人、物と同一であるのですが、それを言葉として説明するとき、どうしてもその言葉を学習するに至った自分の過去に縛られます。つまり、同じ現象を各個人のフィルターを通して説明することになります。故に、彼らの説明から受ける印象も異なってしまいますし、ある人の話は受け入れやすく、逆にある人の話はうさんくさく感じることがあるのです。フィルターを通して話されるある事実を、もう一度、自分のフィルターを通じて理解しなくてはならないのです。

ですから、レスター博士、ラリー氏、ヘイル氏を初め、このような話をする人々は、「私の話を鵜呑みにするな、試してそして自分の選択で受け入れろ」という発言がされるわけです。自分のフィルターを通した考えでなく、感覚として捉えることが必要なのです。

体は自分自身ではありません。ちょっと考えてみましょう。どこかをつねります。痛いですよね。痛いと感じているのは誰でしょう?もし、体が自分自身であれば、痛みは自分自身と言うことになってしまいます。

実際、強い痛み、慢性的な痛みでは、自分自身が痛みそのものになっていることがあります。もし、とても痛い思いをしたことがあるならば、正にその瞬間を思い出してみてください。

しかし通常は、痛みを痛みとして認識しているわけです。ああ、自分の体が痛いなあとかです。ということは、自分は体ではないですね。

次に心です。私たちは過去のことを思い出せます。何か思い浮かべてみましょう。すると何かのシーンを思い出せます。それはいま現在起きていることではありません。では、誰がそれを見ているのでしょう。

心は過去に直視していないことがたまっていくところで、思考の源泉です。それに含まれている物を思い出し、それを見つめることができると言うことは、私たちは心ではありません。

それですから、私たちは、体でも、心でもないのです。

いま、ここにいることは、心から切り離されることです。何かに思い悩むことは過去の出来事を見つめており、現在にいません。つまり、心に捕らわれています。将来何が起きるか想像してみましょう。では、その考えていることはどこから来ているのでしょう?もちろん、過去の出来事です。

いま現在、何かを考えていますか。それは、言葉ですよね。では、その言葉・概念はどこから来た物でしょう?もちろん、過去の学習です。

感情・感覚・思考は過去を詰め合わせた心から来ており、それゆえ現時点にいると言うことは、それらを持たない状態なのです。

レスター博士はその自分自身であることを認識させるのに"Who are you?"という言葉を使いました。ヨガの一派からもってきたようです。「あなたは誰?」と訳せます。自分で尋ねるなら、「私は誰だろう?」になります。ラリー氏も同じ言い回しを使っていますね。レスター博士は'What are you?"も使ったようです。"Who"を使うと具体的な人をイメージしてしまうからだそうです。

ヘイル氏は"Are you?"と意図的にWhoやWhatを省いています。Be動詞のAreは存在している状態を表します。「あなたは存在していますか?」と直訳できます。もっと口語的に訳すなら「いますか?」、「いる?」となります。

「私」という言葉の概念も本当の自分自身を表していません。なぜなら、本当の自分自身は全てであるからです。私という個人に限定してしまうこの言葉・概念は制限と言うことになります。レスター博士が言っているように、全ての思考は制限なのです。

本当の自分自身でいる状態を、言葉で表すのは無理なのです。言葉はある概念を表す音声です。それは、思考でありますから、どうしても制限を含んでいるのです。

本当の自分自身でいることは感じるしかありません。それを限られた言葉を使い表現しようとするなら、いま、ここにいて、全てであり、無限であり、静かで、幸福であるというように、様々な言葉の広がりと共通性を持って表すしかないのです。

その状態で、レスター博士は心を焼き尽くせると言っています。ヘイル氏はその状態で、ただ「ああ、ここに感情があるな」、「ここに思考があるな」と観察するだけであると言っています。この状態は、何の囚われもないので、限定的な何かをばからしくて持っていられないのです。必要も無い重い鞄をいつでも持ち歩くのは愚かなことですからね。

別の表現をするなら、いま紙に「リンゴ」と書きましょう。この言葉が表す果物を思い浮かべることでしょう。では、ここに赤いという言葉を付け加えます。すると、「赤いリンゴ」になり、ただの「リンゴ」より範囲は狭くなります。ここに、「くさった」を付け加えると、「腐った赤いリンゴ」になり、ますます制限されますね。

では、紙の上から全ての文字を取り外します。すると、それは何も表さないと同時に、全てを表しています。なぜなら、言葉を追加するたびに、段々と具体的に限定的な何かを表すようになりましたよね。それならば、逆に言葉を一つ一つ取り去れば、その意味合いは拡大していきます。最後に、全部取り去れば、それは全てを表わすことになりますよね。

自分自身でいると言うことは、こんな感じでしょう。そこにある制限を全部取り去ると言うことは、全てでいると言うことであり、また具体的な何かではないのです。

あとは、レスター博士のレクチャーを読んで理解してください。頭で理解しようとしても無理なんです。

私はかつて自己啓発、のちに宗教団体を目指すことになる団体で働いていたことがあります。最初は全員、宗教でないと言っていたんですけどね。アメリカの総本山が「宗教として認められた」とおおっぴらに発表しちゃったので、その時はみんなどうしようかと混乱したんですよ。私は、成功哲学は好きですが、宗教は好みでないんです。

そこでは、「本当に問題に直面すると、その問題は消え去る」と言われていました。ですから、何か上手くいかないことがあると「直面が足りない」と言われていたのです。ところが、団体の運営上には問題が山積みでした。そう言っていた幹部達はこのことを本当には理解できていなかったのです。(名前を出せないのは、自分自身の都合ではないのです。彼らは自分たちの意にそぐわないものは徹底的に排除する方針なので、うかつに名前を出し、検索に引っかかることになると、削除しろとうるさいのです。それと、そこを辞めるときに悪口は言わないと、約束もしてることですしね。名前を出すと、個人名を出して攻撃してくるのです。)

そこでは、直面して何かを行うことが強いられていました。上司はかなりのプレッシャ-をかけてくるんです。でも、そうで無いんです。ただ、自分自身でいれば、問題は自然と解決していくのです。もし、部下が問題に当たっているからといい、直面するようにプレッシャーをかけたら、それ自身が問題になります。結局、何か行おうとして右往左往し、時に無理に解決され(結局誰かを強制することで、別の問題の種を蒔き)、時には何も変わらず問題はそのまま残り、いずれにせよ、スムーズに物事が進むことは非常に少なかったのです。

まず、上司としては何かをする必要性を感じないほど、自分でリラックスし、直面することが必要だったんです。そして部下達にも、十分に直面するように、それに関する抵抗とか考え・感覚を手放せるよう手助けすべきなのです。ここら辺は博士のレクチャーをお読みください。博士も、物事に直面すれば問題は消えてしまうといっています。だから十分にリリースするのだとね。何か別の解釈をするのではなく、そのまま理解すればいいんです。(私は当初、どうしたら直面することで、問題が切れるのか理屈的な解釈を持っていました。どんな物であったか、いまでは思い出せません。)

これに至るには、博士は当初ヨガを勧めていたようです。もしくは「私は誰?」の質問をし続けることで、達成できるとも言っていますが、それは難しいとも言っていますね。また、リリースをし続けることでこの状態を達することもできると言っています。

ヘイル氏は第5の方法は特定のやりかたではないとセミナーの中で言っています。あくまで、いま、ここにいて、全てが完全であり、問題や不快な感覚は過去の物で、いま現在には存在していないと説明しています。それではあまりにも不親切なので、現在を意識させ、本当の自分自身に気づかせるヒントになる質問、「いますか?」、とか、「この瞬間『私』(という概念)が存在していないのならば、同一性として存在し続けないことは可能だろうか?」-「いま、ここにあるのは何だろう?」、もしくは過去の物語に迷い込んでしまっているならば「これは誰の感覚、思考、物語なのだろう?」と尋ね、その答えが「自分自身」であれば、「この瞬間、記憶へ入り込まないのなら、この『私』(という概念)を実際に見分けられるだろうか?」と尋ねます。続いて「この瞬間、『私』が存在していないなら、同一性として存在し続けないことは可能だろうか?」と続けることもできます。

別の方法として、「いま、ここには実際なにがあるのだろう?」と尋ねる方法もあります。「心が創り出した」答えがなくなるまで繰り返します。

また、「いる?」と自分自身に尋ね、答えが見つかるまで、ただ休息する方法もあります。そうしたら「これで十分だとしようかな?」と尋ねましょう。これらの質問を繰り返し、答えがほしい気持ちがなくなり、自分自身でいることに休息が取れるようになるまで繰り返します。

ヘイル氏のBeyond Letting Goのオンラインセミナーのワークブックには、質問のバリエーションが色々と書かれており、例えば心が答えを出し続けるなら、「それでないとしたら、あなたは何なんだろう?」、「あなたがそれらを超えた先の存在なら、あなたは何だろう?」、「それ以上の存在だとしたら、あなたは何でしょう?」とか聞けるとも書かれています。

更に使える質問として「決して変化しないのは何?」、「いつも努力無しに存在しているのは何?」、「存在するのに言葉がいらないのは何?」「形態がいらないのは?」、「場所がいらないのは?」、「全ての概念を超える物とは?」、「最初も最後も途中も無いものは何?」、「全ての時間と空間を超えてるものは何?」など用意されています。

ヘイル氏曰く、第5の方法は強制することではないし、過去の記憶を意味づけることでもなく、自然に起きるに任せるということです。

またこのワークブックには、欲求の手放しにこの第五の方法を絡ませるやり方を初め、いろいろと紹介されていました

ちょっと変わったプロセスもあります。ペアで行うリリースとして、最悪な出来事を思い出しながら、パートナーに、「ブラ」の単語、日本語であれば「ペラペラ」のペラ、山城新伍なら「ちょめちょめ」のちょめにあたる、通常は誰かの発言を表す擬声語をつかい、「ぺらぺらー、ぺらぺらぺらぺら、ぺらぺら…」と説明します。パートナーはそれを聞いて同様に「ぺらべら」と相づちを行います。お互いに終わったら、ヘイル氏がそれらを手放すように誘導し、次に最高の出来事に対して同じことを行い、ヘイル氏の誘導で再度手放します。

最後に。私が、この自分自身になりきれているかと言えば、いつでもそうなれる訳でありません。しかし段々と、どんな感覚か掴めるようになってきたところです。手放しを行って、いま、ここにいて、起きている感情や思考があれば、それは何か?と尋ね、それが過去の物だと認識し、いま現在に存在していないことも理解していくと、段々思考がなくなっていき、時より起きていく感情や思考をただ眺めて消していく、そんな状態になれます。それを普段の生活の中にも持続できるようになるまで、もうちょっと消しまくる必要があるようです。でも、ゆっくりですが、続けていれば進歩はあるようです。