リリースグループで2024年8月に公開した、私の考えのまとめです。お役に立てば。
数週間前、運動を兼ねた散歩(ウォーキング&ラン)の最中、前々から説明しようとしていた概念をうまく伝える方法が見つかったので、自分のメモも兼ね、みなさんと共有します。書き加えていくうちに数週間経ってしまいました。
言葉の説明
この文章で使用する言葉の定義を説明します。私の定義で、一般的な解釈とは違っている部分もあります。一部は文章中で使用しませんが、リリースの主題の文脈で読むときには理解しておいたほうが良いものも追加しています。
スピリチュアル:精神的なものを含む各種具体的な活動。英語のスピリチュアルには精神的なものの他に心霊的なものも含まれる。スピリチュアル自体は悪いものではないが、執拗な固執や詐欺的なものも多い。私個人はスピリチュアルというときは、純粋に精神的な活動の形態(宗教、哲学、占い、運命論など)を指し、後者の詐欺的なものや固執的な考えをカルトと分けて考えている。
スピリチュアリティ:様々なスピリチュアルや精神的活動の裏で共通して存在する概念。日本語の一言で表せば「精神論」。日本の武道はスピリチュアルではないが、このスピリチュアリティは持っている。
このスピリチュアリティを薄々感じ、少し理解している人は特に日本人には多い。しかし、これが嫌われる原因は主に2つある。1つ目はこうした浅い理解しかない人が実社会で、他人(主に部下)の精神的態度が悪いので結果が出ないとか、思わしくない結果が出るとかと叱責することにより、この手の批判的精神論が嫌われてきた。その人の決意が現実化されるというスピリチュアリティ的な視点から見ればこの種の批判は正しいのだが、世間も大抵の人も意図や思考の現実化にはリアリティが乏しいため、叱責される本人からすれば、理由にならない原因で叱責されていると感じられるだろう。(そもそも思考が現実化する理論の視点からすれば、部下が結果を出せないのは、そうした部下を持った上司側の精神論的態度が悪かったとも言えることに、大抵の人たちは気がつかない。日本人が薄っすらと理解しているのは、社員の不手際に対して社長が不徳のいたすところと謝罪していた傾向にも現れている)2つ目の理由はスピリチュアルの英語の定義に霊的と言う意味があり、一般に霊能者は、怪しい感じをプレゼンしがちであり、それが理性的・科学的なエゴを持つ人から反感を受けてきたからだ。
本然:通常大文字で始めるNatureの訳語に当たる言葉。我々人間などの本質を指す。同義語にビーイングネス、本質、本体、正体、魂、真我など呼び方は様々で、スピリチュアルごと、教師ごとに言葉の定義は多少異なっているが、「人間の本質的な部分」を指す。日本の仏教では、この本質の部分へ戻ることを悟り(さとり)、三昧(ざんまい)、見性(けんしょう)、大悟(だいご)、解脱(げだつ)、即身成仏(そくしんじょうぶつ)、忘我(ぼうが)、法悦(ほうえつ)などと言い表してきた。
エゴ:自我。フロイトが提唱した心理学的な定義ではなく、スピリチュアリティの文脈では「自分自身だと思っている、本来の自分(本然)以外の部分」を広く指す。人間が自分自身だと思っている部分やもの。具体的には、思考や感情・感覚、体などだ。エゴは意識的な部分だけではなく、無意識に沈んだ刺激ー反応自動回路(プログラム)も含む。独立した自分という概念を認識するためには、自分以外の他人や他のもの存在が必要なため、エゴには自分という考えと、「その他(他人、他のもの)」という概念も含まれる。そのため境界を作り、分離欲求を引き起こす。そのため、エゴを捨て去った本然の状態では、自他の区別がなくなる。
エゴを考える際に注意すべき点:レスター博士の提唱した「思考はすべて制限で、エゴである」という点を考えるとき、たとえば「これはペンです」という差し障りのない考えは、「私」という概念と関係ないと理性では反論できてしまうが、「これはペンです」という考えを保持している理由を深堀りしてみたり、「自分」が「これはペンだ」と考えていると認識したり、ペンという概念を理解した記憶を思い出したりすれば、こうした他愛のない思考でも、ペンに関する記憶や経験により自分自身を規定している一部分であると気がつける。
エゴは、乳児から幼児の頃まで感じられていた本然の感覚を失う経験をし、もう感じられなくなった本然の感覚へのあこがれで作り出した似たような感覚が元になっている。つまり、エゴが求めている大元の願望を満足させるには、本然に戻るしかない。しかし、エゴを本当の自分だと思っている部分のため、それを消してしまえば自分が消えてしまうのではないかという恐れを持っている。人間にとって消滅は死を意味する。そのため、エゴを手放す実践には明に暗に抵抗する。
エゴ・パターン:パターンと省略することもある。成長し、自分でどうにか生きられるようになるまで、生き延びるために学習した刺激ー反応パターンだ。生き残るための過去の戦略だ。一部は自覚されているが、ほとんどは無自覚だ。
性格(人格):エゴ・パターンの集まり。人のエゴ・パターンは特定の傾向に偏りがちになる。一般的にはその傾向を性格と呼んでいる。エゴの身につけ方は、身体的な特徴や特質、成長過程および環境に影響を受ける。そのため性格は個人ごとに別々であるが、我々が重要視する生存のパターンは限定的なため、それに基づき認知する特定の特徴的パターンに分類される。我々の認知に偏りがなければ、すべて個人的な特徴として捉え、性格のパターンとしては認知されないだろう。一度、性格分類という轍にはまってしまうと、性格を個人別のものとしてフラットに認知するのが難しくなる。日常では特に、特質の一つを取り上げ使われることが多い。(例:性格が暗い・明るい、理性的・感情的など)
心:日本語に訳される心は、英語ではMindとHeartに分かれる。Mindは思考の心、Heartは感情の心。私達日本人は、心を思考と感情へ明確に分けて考えないため、原文が英語を翻訳した文章を読むと、混乱や誤解をしがちだ。レスター博士の考えによるとMindは現実の製造装置、つまり内部を外部の現実世界へ投影する働きがあると考えた。ラリーさんの解説による、「Mindは答えを持っていない」とは、思考する心は答えを持っていないが、より高次の私達の本然は全知全能であり答えを持っているのだから、エゴの部分をリリースで削り取り、残った本然に任せなさいという教えだ。
愛:シンプルに相手のありのままを受け入れること。状態のあるがままを受け入れること。コントロールしようとしない。「好き」が強くなったものではないし、「嫌い」の逆でもない。
取り上げて、試すこと
言葉は思考です。思考はエゴです。そのため、言葉にすればどうしても発信者のエゴは入ってしまいます。
そのため、今回の説明にも私のエゴは入り込みます。誰の文章でも、考えでも言葉を通して伝えようとすれば、その人のエゴは入ります。
これに対処するには、もともと釈迦(もしくは彼の弟子)の言葉である、「誰の言うことも信じるな。自分で試して真偽、役立つかどうかを確かめろ」と言う方針を忘れないでください。レスター博士と弟子たちの間では「取り上げて(実行して)、確かめる」(take and check)と教えられている心構えです。
本然
我々人間の本質だと定義されている本然について解説します。実際には、本然とは何も人間だけ独占しているものではありません。生物の本質でもあります。むしろ、知性や感情が無い・少ない分、動植物のほうが本質のまま存在しています。本質のまま存在しているということは、本質とそれ以外のものを分けて考える必要もないというわけで、人間以外の動植物にわざわざ本質を考える必要はありません。(そういった意味では、生命のない物質はよりありのまま存在しているわけです。哲学的な考えの中では、本然を物質までに拡大する考えもありますが、そもそも本然のままが普通の状態のため、より一層本然について分けて考える必要はないわけです。)
本然とは
本然は生物本来のありのままの状態です。経験的な概念のため、厳密にそれを表す言葉は存在しないのでしょうが、状態であると説明するのが一番適しています。人間の場合、自分だと考えているエゴ以外の部分を本然と考えるのが一番わかり易い考え方です。
本然に至るには気づきが重要だという意見があります。これは多分誤解されています。本然に戻るのを邪魔している我々のエゴを手放すときに、気付きが起こりやすいのは事実です。特に大きなエゴの塊をまとめて手放すとき、気付きは起こりやすいようです。
ただし、どんな考えもエゴの一部です。気づきや認識さえ「考えて」いる限り思考であり、エゴです。
ですから、どんな認識や気付きであっても、それにこだわり持続させようとすると、それは新しくエゴを固定してしまいます。もちろん気づきや認識が悪いわけでなく、それにこだわって持ち続けようとすることが、新しいエゴを作り出すのです。ですからレスター博士を始め、彼の弟子たちは気づきも、良い感情も手放せと教えるのです。
誰でも本然の状態は経験しています。子供の頃、なにかがあり大喜びしているときを思い出してください。まず肉体的な「喜び」が起きます。ホルモンによる身体の反応です。しばらくすると、ホルモンが尽きるのか、良い反応に慣れて麻痺してしまうのか、体の「楽しい」、「喜び」、「うれしさ」は徐々に弱まり、消えていきます。
するとその直後に、静かで空っぽで、重さのないリラックス状態を経験しているかと思います。それが本然です。しかし子供であろうと、それまでに築き上げたエゴの反応により、ネガティブに考え、ネガティブな感情を呼び起こすか、もう一度肉体的な喜びを求め、笑ったり、騒いだりし、その空白をかき消してしまいます。子供のエゴでも本然の状態を忘れているため、空っぽな状態を恐れるのです。そのため、本然の状態は通常長続きしません。
本然に戻るとは、単に状態と意識の変化、シフト、移行、切り替えです。本然の状態で、心は静かです。つまり言葉を思い浮かべることもありません。考えたり、判断したり、認識したりしません。心は開いています。つまりいろいろな感情が浮かんだとしても、留まらずに流れ、すぐに離れていきます。良い感情も、悪い感情もです。
この本然の状態にまだ慣れていない人は、エゴが拒絶するため、この軽くて空っぽな状態を怖がってしまうかもしれません。もちろん本然は怖いものではありませんが、エゴの部分は本然を経験できないため、不快だとか解釈して、エゴ支配の「普段」の状態へ急いで戻ろうと誘うのです。
レスター博士の説明した、"I...I...I..."や"I am...I am...I am..."だけを考えるというのは、それに集中し他を考えないようにする方法です。特定の言葉だけを繰り返し、それに集中して思考を止めてしまえば、その状態が本然であり、「私が存在している」(="I"や"I am")状態です。ですから、博士はこれを「気持ちが良い」と説明しました。
もう一つ、博士の"What I am"(「私は何?」)と自問する方法も、本然へ戻る手法の一つです。これを繰り返し、出てきた答えを受け入れ、誰のための答えなのかを確認すれば、全てそれは自分自身(エゴ)のためのものです。これを答えが尽きるまで行えば、そこには思考がなくなり、本然の状態へ移行できるというわけです。
本然の状態を言い表す言葉
本然には別名がたくさんあります。ビーイングネスや魂、本質や真我、神などです。これは教える側の主義主張や教師のスピリチュアルのベースにより、採用する名前に違いがあるだけです。こうした概念を表す名詞とは別に、状態を表す言葉でも表されます。愛や調和、全知全能、すべてが一つだという概念であるワンネス(oneness)、自分も他の物事も全体の一部であるというホールネス(wholeness)、信念などの言葉です。宗教的には神のなになにと表現されることもあります。
理解してもらいたいのは、本然には様々な現れ方と感じ方があるということと、だからといってそれぞれ別の状態に遷移しているわけではありません。本然は1つの状態です。私達はそれぞれ、本然をどのように捉えやすいか、感じやすいかという肉体的、精神的な傾向があります。同じ状態なのですが、どのような感覚で状態を捉えるかには、個人差があるということです。ですから、しっくりと来る方法で本然を捉えればよいのです。
本然には人間の良い資質がすべて備わっています。本然は静かです。特定の感情が続いたり、「しなければ」と義務感に駆られることもありません。そのまま、ありのままで愛や優しさ、明瞭さであり、自分の行為を判断したり、結果を期待したり、思い悩んだり、失望したりすることはありません。
本然と万能性
本然は状態です。可能性に満ちた状態です。スピリチュアリティを理解している教師や少なくとも引き寄せ系の人たちは、これを信じています。心理学系を自認する人も「暗示」の効果として、全能性を信じている人もいます。
少なくとも私達、セドナプラスのグループ参加者は、本然の実現力に期待している部分を持っているはずです。これを否定するならば、グループメンバーでいる意味がありません。
本然の状態のとき、意識は現在にあります。今以外の「過去」や「未来」を考えていません。レスター博士を始め、スピリチュアリティを持った現実化の教師はこれが重要だと指摘しています。
願望を実現するには、「今」あるものとして感じろと言うヒントも数多く耳にしたかと思います。ゴールの文言を決めるときに、英語の場合は現在形もしくは現在進行形として書くことも、実現するためのヒントとしてたびたび指摘されています。
現在から外れてしまうということは、過去は変更できませんので、未来へ送るということになります。たとえ今すぐできることであっても、将来へ先伸ばした時点で、欲求に変わってしまいます。例えば、今右腕をあげることは可能だと思いますが、これを1分後に上げようと意図しても、これは「1分後に右腕を上げたい」ということです。1分といえど将来ですから、将来にこれをやりたいと今思うことになり、やりたいは欲求です。欲求は欠乏です。1分後に右腕を上げるまで欲求の欠乏感を抱えたままになります。
ですから、博士は本然の状態で、今、現時点の状態で判断を下し、他の人にもそうしろと勧めていたのでしょう。
将来起きることをポジティブに考えてみましょう。次にやることでも構いません。すると、それは愛着を持つことです。逆に、将来起きる心配事を考えれば、ネガティブになります。これは憎悪を持つことになります。ポジティブだろうと、ネガティブだろうと、将来のことを考えれば、執着を生み出します。欲求でもあり、欠乏です。
本然になにかの現実化を願うとき、多すぎるとか大きすぎるとか制限するのはエゴです。本然にはサイズの制限はありません。フリーサイズです。しかし、ゴールの文言作成時のリアリティは、自分の(エゴの)リアリティにあっていなければ、それは「できたらいいな」という願望になり、「実現するんだ」という意図や熱意にはなりません。
熱意というのは自分ができると思えるから湧き出てくるものです。逆に、ゴールに熱意を持てないなら、リアリティが足りないのです。
実際の話し、私達がゴールチャートに取り組むとき、もしくは他の引き寄せなり、現実化なりの手法へ取り組むときに熱意が持てないのは、リアリティが不足しています。「なったら良いなぁ…実現したいなぁ…」というウキウキ感はあっても、熱意が無いのです。本然には制限はありませんが、私達のリアリティが追いつかないのです。ですから、段階的に小さなことから現実化に取り組むようにレスター博士とラリーさんはアドバイスしていました。
本然には制限もなければ、善悪もありません。好き勝手してよいのです。それが周りへ迷惑にならず、逆に回りにもプラスをもたらすものであれば。あなたが豊かになり、周りの人たちにおすそ分けできるようになることは、何の問題もないはずです。では、逆になぜ周りにマイナスをもたらすことは現実化が難しいのかといえば、本然には調和、平和、バランスが取れていることも含まれるからです。別の言い方をすれば、マイナスを引き起こすのは非愛であり、本然は愛であり、非愛は本然ではないからです。
そして本然の実現力は数の制限もありません。一人一生に3つまでとか、一年に1回だけとか、制限はありません。いくらでも欲張って実現してもよいのです。実際、レスター博士は全て一度に達成しろと言っていました。しかし、彼の教え子、その教え子の生徒と教えがわたっていくうちに世間の現実化の手法が混ざり、一度に一つずつやるのが良いとか、3つ程度まで取り込む方が良いとか、実現する目標の数に制限をかけるようになりました。もし、皆さんがゴールの実現が全く難しいのであれば、全ゴールに懸命に取り組むのも一手です。それは悪いことではありません。そうしたければ、それでもよいのです。
ただし、熱意を持っているかをチェックです。「すべて実現できる」と本気で信じている(リアリティを持っている)のでなければ、熱意が冷めてしまい、続かないでしょう。
そして熱意を持っていなければ、本然が出してくれている答えやヒントを見逃してしまいます。本然は思ってもいない形で答えを出します。(思いつく答えは、理性だと思っている私達のエゴが出しているものです。)注意を払っていなければ、「思ってもいない」のですから、見逃してしまいます。多分、これが私達が実現化するにあたって見落としている要素です。すでに答えてもらっているのに、それに気がついていないのです。
見逃さないように熱意を保ちましょう。見逃さないように探しましょう。注意しておきましょう。
経験により制限され続けてきたエゴ、その制限の経験で身についたネガティブで本然を制限しているエゴの言うことは無視し、好き勝手にどんどん欲しがりましょう。熱意にワクワクし、実現に情熱を掻き立てましょう。すべてがチャンスのネタだと思い、いま起きていることへ注意を払いましょう。起きることを楽しみ、期待し、うきうきわくわくし、十分に味わいましょう。
奇跡を望み、奇跡を期待し、奇跡を受け入れ、奇跡を探しましょう。きっと、これが、私達が足りない部分だったのです。
本然と体
本然の状態のとき、体を意識していません。一方で、意識を現時点に持ってくるためには体を使う方法がスピリチュアルの領域ではよく使われます。呼吸に集中するのも、体感覚に集中する一種です。私達の思考や感情は過去を引きずる、言葉を変えると過去に存在していることがあります。しかし、体は現在にしか存在していないため、体に注意することで過去、ときには未来(たいてい未来を心配する)に向いている意識を現時点に戻せるからです。
これは、現時点に意識を持ってくるには良いテクニックです。誰にでも使えます。体感覚・体を使う認知へ集中するのも同じです。集中して見たり、聞いたり、感じたりすれば、その間は考えたり、感情に振り回されたりしません。ばらばらになったり、過去に向かっている集中力を束ねて、現時点に持ってこれます。
古来東西の宗教の修行に、我々が一般的な生活で行う、掃除などの作業が含まれている理由もこれです。ただ漫然と掃除していても修行になりません。雑念を捨て、意識を現在に保つ訓練としてやるなら、どんな作業でも修行になります。
しかし、(本然は集中状態でもありますが)体や体の感覚に集中することや状態が本然ではありません。本然の状態では思考も認識も判断も止まります。視覚で言えば、眼の前の景色を見て、空が青いとか雲があるとか、車が駐車しているとか、あれは緑でこれは黄色だとか、そんな考えすらありません。本然の状態では、思考は止まり、ありのままを眺め、聞き、感じとるだけです。感情が湧いても、ただ流れていくだけで、保持しようとはしません。
単純な例を考えてもらえばわかりやすいでしょう。体のどこかが痛いとき、その痛みに集中してもそれは本然ではありません。痛みは体の「S.O.S.」信号です。ですから意図せずともその強弱に合わせて、私達の注意を奪ってしまいます。それが私達の本然だとしたら、夢も希望もあったものではありません。
思考的な心から見れば、本然の状態は注意散漫に感じるかもしれません。エゴはその注意散漫さは危険だと言う理由で説得してきます。いつもの通りエゴが主体である状態に戻そうとするでしょう。しかし、実際は、本然の状態を保っていても、大抵の場合は体(脳)に刻まれた回路が動き、危険な場合は回避行動を体が自動的に取れます。(それでも、この種のエゴの妨害を防ぐために、本然に戻ろうとするときは安全な場所を選ぶとよいのです。)
本然とリリース
さて、本然に近い状態では、レスタライズの説明にあるように、普段見つからないエゴの細かいゴミも見つかります。レスタライズではCAPの状態でゴミを見つけるように教えられていますが、より上位の本然である空っぽで静かで平和な感覚に到達できれば、そこから少しでもずれたら、そこに何かがあるとわかるのです。本然から逸らすものを見つけ、感じ取り、ただ自然と流れ出ていくまま、離れていくままに手放せます。より、深い開放が行えます。(開放に高い意識の状態を利用するため、レスタライズは上級のテクニックなのです。)
レスタライズは上級テクニックですが、誰でも使いやすいのが「非愛を消す」テクニックです。本然は愛の状態です。すべてを愛する状態です。すべてを受け入れ、気分が良い状態です。それから外れるならば、愛ではなく、本然ではありません。それを手放します。これは普段の生活で活用できる素晴らしいテクニックです。「自分は今、愛の状態か?」チェックして、「いいえ」ならそれを手放します。
エゴは「自分」と「それ以外」の概念を含んでいますが、エゴを捨て去った本然の状態では自分も他人もありません。それを分ける境界の認識はありません。それ故、本然に到達すれば分離欲求もなくなります。
愛着も憎悪も、感情と思考を含んでいます。捕らわれている限り、その対象を考えてしまいます。愛着も憎悪も無ければ、その対象を考えません。つまり、思考がない状態です。逆に、愛着か憎悪を持っていれば、思考が生まれます。愛着と憎悪のプロセスで、愛着や憎悪がないなら、それ以上何も思い浮かばなくなります。思考も無くなります。対象について何も思わず、何も考えず、何も感じなくなります。ですから、愛着と憎悪のプロセスを行うときは、出てくる思考を全部削ぎ落とすつもりで行いましょう。関係ない思考、中断させる思考が浮かんだとしても、それも手放すのです。なぜそれを思いついたのか理由を探れば、抵抗や欲求が見つかります。
・眠くなった…よく寝ていないから… ・来客のチャイムが鳴った。誰か来たのか確認しなくては… ・メールチェックしなきゃ…LINEチェックしなきゃ…SNSチェックしなきゃ… ・好きな番組が始まる… ・もう答えが尽きて思い浮かばなくなった。そろそろ終わりにするか…
当たり前ですか?それがエゴの罠です。エゴが消されないようにリリースを邪魔しています。
加えて、シンプルにリラックスしてください。体を十分にリラックスし、心をリラックスしてください。完全にリラックスしすれば、自然と思考は止まり、心も開いた状態で流れ行くままになります。それこそ本然の状態です。本然に戻るためのリリースがうまくいかないときは、どうこうしようとせずに、ただリラックスしてリリースしてください。このポイントが外れているとうまく行きません。
エゴを起動するもの
次に、本然から引き外し、私達のエゴを動かすもの、エゴの自動反応パターンを強めるものについて考えてみましょう。
リリース的には欲求です。レスター博士が教えた内容です。リリースで3つの(もしくは4つ)欲求を手放すのは、より細かい習慣や感情の塊である欲求を手放すことで、一度に効率よく開放しようというのが博士の教えです。
しかしながら、どんな感情や制限、考えでも、「それを3欲求と見なし」開放できるということは、エゴの根っこの部分に欲求があるとも考えられます。
自分の経験を振り返れば、欲求が湧き出るときや強くなるとき、自分のエゴの刺激ー反応パターンも強く刺激され、現れやすいことに気がつくでしょう。それ故、手放しの手法は欲求を開放し、消滅させるワークを行います。
リリースから離れ、その他のスピリチュアル一般の分野では本能も、衝動となると考えられています。
一番わかり易いのが、性の衝動です。古今東西の宗教では、性欲の抑制を求めるものがたくさんあります。それは、肉体の衝動が、私達のネガティブを起動、強化するため、精神的な修練の状況では、押さえつけることが有効であると体験的に理解されてきたからでしょう。
現代の私たちは、もう少し理解しておくほうが良いでしょう。肉体的な性の衝動と、本能、思考的な性癖とはそれぞれ異なります。
肉体的な性の衝動は、体の反応・性衝動です。これは直接的でシンプルなものです。男性は精巣に精子が貯まることで強くなり、女性は月経のリズムを作るホルモンの影響を受けます。体の生殖器に直接関わっています。
性の本能は体からの性衝動ではありません。祖先を残すために異性の相手を求め、求められる誘引、性行為による強い快感・刺激への渇望、カップルが成立したり子供ができたりすることによる変化への期待、そうしたものは遺伝子レベルで動物としての私達に組み込まれています。
最後の思考的な性癖は、性衝動を刺激する思考レベルのトリガーです。肉体の特徴であったり、特定の部分や行動に興奮するフェチ的なもので、万人に共通するものではありません。成長の過程で学んだ、何を性的かと考える経験によるものです。
宗教では最後の思考による性衝動だけでなく、生殖器からの直接的な衝動と性的本能も抑えるように指導されます。なぜなら、どのような性の衝動もエゴを刺激してしまうからです。宗教のトレーニング(修行)では、エゴを解消し本然へ戻ることが重要な目的だからです。
性本能を含む、本能は動物としての我々が持っているものです。動物が種の保存を目的とするため、遺伝子に組み込んである反応です。性的本能の他にもいろいろな分け方があるでしょう。一例として自己保存本能と社会的本能をここでは紹介します。
日本の仏教では、修行中は粗食や食事の制限があるものが多いようです。特定の場所で決まった作法、粗食で生活します。これは、自己保存本能も抑えるためであると考えられます。この本能は欲求で言うと安全/安心/生存欲求に該当します。自分の居場所を作り、より快適に保ち、テリトリーを保守しようとする本能です。集団生活と生存に最低レベルの規律に従うことで、この自己保存本能を抑えることを学びます。
西洋の多分カトリックだったかと思いますが、修行で暗いところに入って生活したり、長期間話をしない修行があります。コミュニケーションを断つことにより、社会的な本能、自分が所属するグループにおいて有利になろうとする本能を抑制するためのものであると考えられます。欲求であれば、承認欲求に当たる部分です。積極的に他の人と関わり合い、グループでの生存において役割を果たそうとする本能です。
こうした本能は、人により強弱があります。動物が種を残すためには、バラエティがあったほうが種全体としての生存確率が上がります。ただ、人間として我々が過ごす場合、本能は欲求と同じく、私達のエゴを刺激し、動かしてしまいます。リリースで本然を目指すには好ましいことではありません。
宗教では本能を抑制しようとします。そこまで極端でなくても、強すぎる本能に気づき、それを少しだけ落ち着かせると、エゴの開放には役立ちます。リリース・テクニックのコースの中に、実践としてトレーニング中の生活に色々制限を課しているのは、こうした昔ながらの宗教的トレーニングの方法を取り入れているからでしよう。
そして、本能の部分は完全にゼロにすることは難しいことも意識しておきましょう。本能的な衝動をゼロにできないからという理由で自分を責めるのは間違いです。まして、宗教の修行のように本能を抑えるために規律で縛り、それを意志力のトレーニングだとしてしまうのは、私達が日常生活で実践するにはハードすぎます。自分をいじめることは私達の目的ではありません。本然に戻る、その軽くて楽で幸せな状態へ戻るのが私達の一番の目的です。
重要なのは本能の衝動は欲求と同様に私達が感じ取れるものであり、それがエゴのパターンを起動するということです。ですから、リリースに習熟し、この最初の起動の感覚を素早く感じ取れれば、エゴのパターンが動き出す前に認知し、パターンを断ち切ることができるのです。きっかけとなる衝動を直接抑えるのは難しくても、衝動がエゴのパターンを起動してしまうことを断ち切ることは案外簡単にできます。
繰り返しになりますが、本能は抑えるのが困難ですが、前述の通り宗教的な修行では、意志力により本能自身を抑えようとします。より現代的な方法では、衝動とそれが自分のエゴを起動することを認知し、パターンが起動してしまうまでにある時差の間に、パターンを抑えるために意志力を使います。こちらのほうが、ずっと簡単です。リリースに通じると、本能が欲のように感じ取られることもあります。欲を手放しても、繰り返し湧き上がる衝動があるのであれば、それは本能の衝動かもしれません。
欲求が起点になる場合は、欲求を認知した時点で手放しのテクニックが使えます。手放しが進めば意志力も強くなり、自分のエゴパターンが自動的に動くことをより阻止できるようになります。そして、パターンがだんだん動かなくなります。欲求も減っていきます。
「ある」状態
他記事でも紹介しましたが、日本語の場合「ある」は存在を肯定する意味です。人間にとって存在は生命と関係があります。何かを強く「ある(有る・在る)」と感じるほど、その存在感だけでなく、自分の存在感、つまり生命力(バイタリティー)も強く感じられます。
逆に、何もかも「ない」と否定してしまうと、バイタリティーが落ちてしまいます。究極に「ない」状態は人間にとって「死」です。何もかも無いものとしてしまえば、精神的に死んでしまいます。
存在するものを無いものとして考える・感じる・思うことをスピリチュアルの分野ではノットイズ(not-is)という言葉で表します。逆に存在そのものをそのまま受け入れることをアズイズ(as-is)といいます。その中間で、一部を変更して捉えることをアルターイズ(alter-is)といいます。
アズイズは受容の状態です。受容は愛です。もちろん、本然の状態でもあります。思考がなければ、あるものをそのまま受け入れる以外できません。ただ、シンプルに存在するものを受け入れます。そういった意味でも、「ある」と認識するのは、本然に近い状態です。バイタリティーは体の感覚ですが、精神的にすべて受け入れる本然の状態では、自然とバイタリティーも大きくなるのです。それは自然なポジティブさとしても感じられるでしょう。
逆に言えば、本然の状態にいるはずなのにバイタリティーが下がってしまっているのであれば、本当の本然の生み出す静安・平安の状態ではなく、エゴが作り出したアパシー・無気力の状態にハマっているのです。エゴはこうした面でも狡猾です。(でも敵対しないでください。下記の通り憎悪もエゴを増やし、強くします。まず、受け入れましょう。)
さらに、「ある」を受け入れる状態は、バイタリティの増強だけではなく、思考の現実化にも役立ちます。あなたが思考の現実化にリアリティをもち、ゴールの実現にリアリティを持てば、そのゴールや願望は実際に「ある」と思えるでしょうし、それを達成する出来事やヒントが周りに「ある」と思えるでしょう。あるものを素直に受け入れましょう。
愛憎
本然の状態は愛憎もありません。思考も無いからです。おさらいしておきましょう。愛着は対象と距離を縮めたい思い、憎悪は対象と距離を取りたい思いです。これは博士だけが提唱した定義ではありません。同世代のスピリチュアル教師達も、同じ説明をしています。
本然とは逆の状態が普段の我々で、欲求と性格を持っています。別の言葉で表せば、エゴが表に出ている、エゴに支配されている状態で、何かに愛憎を持っているのです。それゆけ、レスター博士は愛憎を捨てろと教え、リリース・テクニックではラリーさんが愛憎のプロセスで徹底的に見つけ、手放すプログラムを作ったのです。
何かに極端に強い愛憎を持っている、つまり強く執着している状態は精神異常の一つです。ときにそれは、良き資質、本然の資質ということもあります。正しさや力、愛などもそれに執着してしまえば、それはエゴになり、強くなるに連れ本然の賢さからは遠ざかっていきます。本当の愛や強さは、自然と流れ出すものでコントロールできません。する必要もありません。対象が嫌いだからといって止めることもありません。
本然として我々が持っている善性、良き資質は自然と発揮されるものです。それ自身に捕らわれてはいません。たとえば、困っている人を助けなくちゃならないというのも、良い資質に思えますが、それを考えている限り、そして優しさや正しい行動に執着している限り、それは単なるエゴです。エゴのパターンです。本然としての善性が発揮されるとき、私たちは考えなしに自然と行動しています。