風邪の症状がおさまりきらなかったとき、夜中に咳で目覚め、子どもの頃の考えをただ受け入れただけで、体が軽くなった話です。


私で言うのもなんですが、子供の頃は素直で悪意がまったくなく、子供らしい子どもでした。エゴが子どもの役割を果たしていた面もありましたが、エゴ自身が他の子どもより薄かったのは確かです。

その今より遥かに純粋だった頃、今と何が違っていたのかを体調が悪いときに考えまして、ふと「永遠に生きる」という概念を思い出しました。子供の頃は、死に対する恐れではなく、「永遠に、このまま生き続ける」という信念らしいものを持っていました。

それとは逆に、それまで丈夫だった体が、まだ中年にもなっていないのに、将来に対する漠然とした恐れに捕らわれ、死を意識し、意識したがために仏教的な輪廻転生の考えや、それを西洋風に消化した考えを取り入れ、段々と体が弱ってきて、ついには心臓病にかかりました。

これまで、身体の状態をターゲットとしたゴールにも取り組んできました。しかし、奥底で何か邪魔している感じがありました。

それが、子供の頃を思い出し、子供の頃の後半である程度成長したときには「永遠に生きる」、たぶん成長して言葉でしっかりと表すことができない前ではもっとシンプルであった考えが、存在していたことを思い出しました。

それを思い出し、心で考えただけで、体の重さが消えていきました。

そもそも、子供の頃に体が丈夫であったかといえば、どちらかといえば病弱でした。重い病気はありませんでしたが、しょっちゅう風邪を引いたり、蓄膿症や、当時は言葉もなかった花粉症になっていました。ところが、それらに負けず、キラキラしていました。つまるところ、身体の状態とは関係なく、生命力や興味、愛を持っている本然の状態に近かったのです。

これを見つけたので、他に何かないかと探りました。

ありました。子供の頃は「皆良い人」という考えでした。生徒から人気のない怖い先生でも、明るく挨拶する生徒でした。愛がありました。どんな人でもそのまま受け入れることができ、嬉しさに溢れていました。

この考えが壊されたのは、懸賞詐欺です。子供の頃に「~等当たりです。おめでこうございます。これがもらえ(購入)できます。」というはがきによる当選詐欺でした。現在では子供相手のこの手の商法は無効ですが、当時の法律でどうであったかはわかりません。ただ、心のなかに憤りが残りました。(周りの大人から責められたことで、自分の幸福さを信じられなくなった要因でもあります。)

もう一つ、「富は無尽蔵」という考えもありました。当時は、「自然は無尽蔵、お金も豊かさも無尽蔵。時間も無尽蔵。」と制限がないという考えを持っていました。これはメディアからのニュースにより、段階的に上書きされていきました。

無尽蔵のはずの石油は、あと10年で尽きてしまうと報道され、無尽蔵のはずの自然は「開発により森や水源が消えていき、砂漠化が進行」、魚は「漁業資源が枯渇してきた。他国は約束を守らず乱獲中。」それに加え、学校により時間を区切られることにより、時間には単位があり、終りがあり、制限があると教育されてきました。子供らしい同級生とのいざこざで、少しづつ人に対する愛着と憎悪を積み重ね、やがて無条件に人を愛することはできなくなり、好き嫌いを持ち始めました。

今のところ、こうした制限の体験が積み重なり、こうした本然と近い考え方をすぐに信じることは難しいです。しかし、信じなくてもその考えを心に置くだけ、そう考えてみるだけで、気分は変わります。

そこで今回共有したいのは、昔自分がキラキラしていた頃、もしくはその瞬間に持っていた考えを突き止め、今それを再び感じてみることです。時間はかかりません。昔の良いときの調子が蘇るでしょう。

一時的でも構いません。何か突破口になるものがあればよいのです。ちょっと上向いたら、暗示でもリリースでも教育でも何でも良いので、更に小さくワンステップ上昇することを続けましょう。

どんどん上昇する、小さなワンステップを作ればよいのです。