犬の散歩に行って来ました。寺の掲示板にあった「自我崩壊」、「絶対沈黙」の言葉が目に入って来ました。
東京にいる時は、アチラコチラの寺に掲示板があり、まあお寺も顧客獲得のため、いろいろPRが大変なんだろうと思ってました。田舎に帰ってから近所の寺を見てみると、半数程度の寺には掲示板がありました。お寺も都会化が進んでいるようです。
私の住んでいるところは、昔は寺町と言い、小さなお寺が集まっています。その中でも、大きなお寺の掲示板に「念仏は絶対沈黙の声、自我崩壊の音」と書かれており、面白いと思ったわけです。
このサイトにいらっしゃる方は、レスター博士のレクチャーの翻訳をお読みになっている方も多いでしょう。思考とは全部制限であり、思考を手放せば、声が段々と少なくなる。自我とはエゴのことですが、そもそもエゴの始まりは、「自分は万物(全)から切り離された、一人の人間である」という考えから始まることが指摘されています。自分という考えを捨てれば、「私」が「全て」であり、それが絶対的な幸福であると主張されています。
リリースで開放が進んでいくと、段々頭の中の声が静かになってきます。声が完全に静まった時、そこにあるもの全部が自分であるとレスター博士は教えていました。そのような状態であれば、全が私であります。自分自身を規定する、自我はそこにはありません。
絶対沈黙とは、もちろん言葉が完全に消えた状態で、静か、穏やかな状態で、その状態ではもちろん自分がどういうものであるかという自我が存在していません。自我崩壊というとまるで気が狂ったような表現ですが、そうではなく、制限に満ちたエゴが壊れて無くなることを意味しているのでしょう。。
仏教の教えと言うよりは、ある仏教徒の人が話した言葉らしいですが、レスター博士の話とつながりがありますね。
ちなみに、検索するとこの言葉を解説している和尚さんがいらっしゃいます。高飛車な物言いになりますが、よく分かっていないようです。ちょっと離れた立場から、この言葉を見ている私達のほうが、真意を理解しているかも知れません。
真理とは単純なものです。