子供にとって親は全権力を持った人間です。しかし、完全な親はいないのです。
完全な親とは、一般的な表現を使うのであれば「完全な人格を持ち、愛にあふれた人物」となるでしょう。
ですが、私たちは自分を育てた親、もしくは養育者が「完璧」であること、優れた人物であることを心のどこかで願っています。しかも、各自が求める「完璧さ」は親を含め、それぞれの人間で定義が異なっています。
通常、親になるとき、既に成長期を超えており、子供が最初に出会った親はどんどん年をとっていきます。同じ月日で子供は「成長」し、親は「年をとる」のです。子供は知能も体力も上昇していきますが、親は逆にすべての面で下降していきます。
こうした肉体的な面で見ても、私たちは親に追いつき、追いぬくことになります。
肉体的な変化がないとしても、親であることが、あなたの精神的な支持者として十分成長しているという意味ではありません。子供を作る能力は肉体に依存します。精神に依存しているのではありません。ですから、もちろん精神的に未熟であろうと、親にはなれます。
未熟な精神の親により、子どもとしてのあなたは虐待を受けたり、満足に育てられなかったかもしれません。普通に育てられたとしても、満足していないかもしれません。
例えそうだとしても、レスター博士によると、あなたは生まれる前に自分の運命を決め、肉体を決めます。ですから、親も選んでいるそうです。
「すべての責任を取る」
日本語における責任を取るとは、ほとんど何かを止めることを意味します。そのため会社の下っ端が重大な事件を起こしたら、たぶんその人物の名前も知らないだろう社長が「辞める」のが、日本の責任のとり方です。まあ、どこの社会でも似たような責任のとり方はあるようです。
本来、責任とは自分のコントロールできる範囲に対して取るものです。一般的には天変地異をコントロール出来ません。ですから、天変地異による被害に対し、直接責任をとることはだれでも出来ません。それでも責任を取れと主張するのは子供のやることです。子供時代にこんなふうなことを言いませんでしたか。「絶対に約束守れよ。例え地震が起きても、雷が落ちても、絶対に守れよ。」
レスター博士の言う責任とは、自分に関する万事が自分の決定によるものであるということです。私達の直面している現実は全部、私たちの過去の決断による結果です。それには、自分の親を選ぶ、そしてどんな育てられ方をするかも含まれています。「子供だったから、私に責任は無い」と言えないのです。
だからと言って、自分を責めることを勧めているわけでありません。私たちが遭遇する出来事は自分が決めていることを認識させ、自分の人生を良い方向へと舵を取るために、より良い決断をすることを教えているのです。
方法はシンプルです。親に対する、育ててくれた人に対する、愛着と憎悪を投げ捨てましょう。シンプルにリリースを応用しましょう。私たちは親は完璧な存在ではないと頭では分かっているのですが、完璧で有能であることを心の何処かで願っています。それ故、いらだち、反抗し、受け入れられないのです。そうした思いも全部リリースしましょう。
次にあなたが出会った全部の人に対して、同じ事をしましょう。私たちは彼らに出会うことを決めて出会いました。出会う出来事を自分で決めました。しかしほとんどの場合、最善の出会いではありませんでした。けれどそれも私達自身が決めたことです。
私たちは、出会う人々全員に対し、時には疑いながらも、心の何処かで「有能で良い人」であることを期待しています。それが裏切られると、失意を感じ、続いて感情の乱れを経験します。
こうした傾向を見つけ、リリースしましょう。決断を見つけ、リリースしましょう。そして、良い方向、制限のない、自由な方向へ決断を増やしましょう。
私達自身がそうした方向へ決断を行えば、「より良い親」、「より良い友」、「より良い同僚」へなれるのです。