幸福である感覚が、同一性(Oneness)であるというのは、どういうことでしょうか。

先日、幸福感を感じている時に、その肉体で感じる感覚でなく、その存在のままを感じてみようと思いました。

深く感じているうちに、その幸福感は英語のIt's me!という感覚であると気が付きました。この時は日本語ではなく、英語の表現を思いついたのです。日本語にすると、「ああ、自分だ!」、「あれ、じぶんだ!」

ありのままの状態、beingnessが自分自身であり、それは幸福であるというのは、このような感覚であるからだろうと納得できました。

その時、目を開きまわりのものや空間をながめながら、自分との境界を意識しようとしても、境界は存在しません。幸福な時に身の回りのものを見て、「これはなんだ」と思うと、「自分だ!」という感覚を感じるのです。何を見ても同じように感じます。

それが同一性、onenessの感覚です。全ては同じ自分であるという感覚です。それは同時に、自分は全てであるという感覚です。それはallnessです。うまく訳せません。全ての状態という意味になりますね。

こうした感覚は特別なものではないのです。みなさんも幸福を感じているとき、まわりの物や人をどう感じているかチェックしてください。こうした感覚を持っていることに、気がつくことでしょう。

逆に、幸福を感じていない場合は、このような感覚を失っています。

ついでですから、愛着、憎悪、本当の愛についても考えてみましょう。愛着と憎悪は距離に対する感覚です。もっと近づけたいという感覚が愛着、遠ざけたいという感覚が憎悪です。単純に好き嫌いに置き換えてみれば、好きなものには近づき、嫌いなものからは遠ざかりたいという普通の心理と一致しています。

究極の愛着は全く同じ場所を共有することになります。肉体のレベルでは、セックスが限界です。それを越してしまう場合は「精神的」という枕詞を付けて表現します。

ですから、愛着と憎悪は肉体にまつわる感覚で、肉体が密着するところが限界です。

本当の愛でなければ同じ場所を共有することはできません。もし、あなたと私が肉体であれば、ぴたっと近づいたところが限界です。近づいてはいますが同じ空間を共有してはいません。

もし、あなたと私が本当に同じ場所を共有しているなら、私達は肉体ではありません。そして同じ空間を共有しているという事は、私から見たあなた、あなたから見た私は「自分だ!」という事になります。

ですから、私達の本質は幸福であり、同時に愛でもあるわけです。レスター博士が「他の人を自分だと思え」と教えた理由でもあるでしょう。

世迷言に思えるでしょうが、幸福と愛は両方共に私達自身の本然というわけです。