正しい、間違っているという判断は、人間の性善性のため、隠されながらも私達を苦しめます。

 時速40キロ制限の道路を車で走っているとしましょう。周りの車は流れに沿って60キロ程度で走っています。

 法律的には、もちろん40キロを守らなくてはなりません。

 でも、世の中にはびこっている「常識」では、道路の流れに沿って走るのが良しとされています。

 さて、あなたはどちらの基準を守りますか?

 学生時代を思い出してください。小学生や中学、高校の時代です。

 あなたは、友達数人と街をぶらぶらしています。すると、一人が他の友達を目配せをします。

 ある店の前を通りかかった時、一人が店員さんに声をかけます。店員さんが振り向いたスキに、別の友人は商品をカバンに隠してしまいました。

 そうです。万引きです。あなたは唖然としましたが、注意することも出来ず、そのまま一緒に歩いていきます。

 人通りが少なくなったところで、万引きした商品を取り出して、自慢気にこう言います。「面白いぜ。みんなやっているんだ。お前もチャレンジしろよ。仲間だろう。」

 さて、あなたは万引きしますか?断りますか?

 私達は人とのつながりをグループとして認識します。二人以上いればグループが成り立ちます。家族、友達、クラス、会社、PTA、暴走族、暴力団、市町村、国家、なんでもです。

 それぞれに「決まり」があり、時に所属しているあるグループの規律が、所属している別のグループと反することがあります。

 日本で車を運転するのであれば、日本に住んでいるものとして日本の法律は守らなくてはなりません。しかし、ドライバー間の暗黙のルールやら特定の場所で適用されているローカルルールも存在するのです。

 もちろん、あなたが普段20キロオーバーで運転しており、捕まらなかったとしても、今日は捕まるかもしれません。そんな時に、警察に向かって、「周りに合わせて流していただけ」とか、「みんなそうしている」と主張したところで、受け入れられません。

 逆に、自分一人で40キロ以内で走り、「俺は正しい」と思っていても、後ろの車が車間距離を詰め、バックミラーで見ていると、片手運転で、いかにもこちらの遅いスピードを暗黙に責めている態度を取っているのを確認すると、法律的には悪くは無いのに、罪悪感を感じてしまうのです。

 万引きに誘われた場合、万引きすれば、法律に触れますが、友だちとの友情は守れます。万引きしなければ、法律は守れますが、友だちに対し罪悪感を感じたり、仲間はずれにされるのではないかという恐れを抱くことになります。

 一方のルールに従えば、一方の規律を破ることになり、苦しむのです。

 どちらに従ったにせよ、破った方のルールに対して感じた罪悪感に苦しめられます。罪悪感はとても強いので、段々と自分から「感じなく」していきます。注意をそらします。

 同時に、言い訳をすることにより正当化していき、その正当化により、今度は同じことがやりやすくなります。そして、もっと片方のルールから逸脱して行きます。段々とエスカレートしていくのです。

 もちろん、根本には欲求があります。仲間から、もしくはグループ内で認められたいという承認欲求、そしてグループの中でより良く行きたいという安全欲求です。

 究極的には善悪は存在しません。私達の解釈にしか過ぎません。しかし、例のような極端な状況でないにしろ、現実に相反するルールの間で、選択を迫られます。

 あなたは、リリースの実践者です。ですよね。ならば、選択の前には素早く感覚をリリースしましょう。心を乱されないようにしましょう。本来のあなたはどちらを選ぶのかわかりませんが、あなたがより幸福になるように仕向けてくれます。そして、リリースし続けていれば、このような究極の選択のような馬鹿げた選択の場面には、段々と出会わなくなっていきます。

 どんな選択肢を選んだにせよ、罪悪感を引きずらないでください。感情、感覚を引きずらないでください。素早く、消し去りましょう。持ち続ければ、次回に正しい判断ができなくなります。そして自ら状況を悪くすることにつながります。なぜなら、あなたは悪い結果にこだわっているからです。

 一度選択したら、その選択に関してあれやこれやと考えないことです。結果が悪ければ、選択を変えればいいやと思い、やろうと決めたことはやり、止めようと決めたことややらないことです。

 そして、他の人も正悪と戦っていることで、苦しんでいることを理解してください。

 あなたは正悪と戦うことはありません。良い気分で判断し、どんな結果が出ても幸福でいてください。