日本語版:未翻訳

翻訳度 翻訳されていません

ニュースレターとして訳した「罪と恥」の元になった節だと思われます。こちらのほうがわかりやすかったため、「罪と恥」の翻訳より、読みやすいと思います。タイトルは「罪と恥の名において持続している嘘」とでも、訳すのでしょうか。

しばし私たちの人生を著しく制限し、惨めにしてしまう罪と罰には3つの神話があります。最初の神話は一番大きな嘘で、罪は我々が罰せられることから守って くれるというものです。実のところ、罪悪感とは無意識に懲罰を「私は受けるべきだ」ということなのです。これは真実です。罪の意識を感じるとき、私たちはこの世界からの懲 罰を引き寄せ、自分自身に対しても作り出します。ここに意外な問題点が存在します。私たちは、も う既に十分に罰せらたとは決して感じることがないのです。

いかにこの自己懲罰は起こるのでしょうか?最初、するべきでないこと、悪いことだと信じている何かを行うか行うことを考えます。興味深いことに、私たちは しばし、考えただけで実際に何も行なわくとも、罪を感じるのです。世間の目から逃れようと、逃れまいと、何を行った、考えたかという認識を私たちは覚えていますし、この罠を簡単にはリリースしようとしないでしょう。なぜなら、私た ちは外部からの懲罰は逃れられないと信じており、自己懲罰をおこなえば外部からの懲罰を受けることを防いでくれるという間違った希望を持っているからです。しかし私たちは他人の(もしくは自分であっても)どの程度の罰が適当であるかを決める内部統制の感覚を知り得ないわけですから、常に罰しすぎてしまうのです。

私が覚えている罪が動機となり自分自身に負わせた、この種の罰の最初の行為は、幼稚園で仲の良い友達に腹を立て、彼を強く押したため、滑り、倒れてガラスが壊れたときのことです。彼を傷つけたことをとても悪く感じ、先生と両親が自分に与えるだろう罰がどんなことか、あまりにも恐れていたために、ガラスの一片を取り上げ自分自身に傷を付けました。心の中でこの行為が、差し迫った悪い影響から自分を守ってくれることを望んでいました。もちろん、守ってはくれませんでした。やはり悪い影響、そして罰を受けることになりました。しかしながら、この罰は余り重いものではなかったため、何があったのかを思い出すことさえできません。例外は私が罰したことと、ふさわしい重さの罰として自分の手を切ったことです。

時間をとって罪悪感について考えてください。何かを行う、行わない、話す、話さない、もしくはただ考えたり感じたりしたことについてです。注目する点は、あなたが自分自身を罰しており、すぐにでも外部よりの懲罰が与えられることへの不安を抱いているかどうかです。

罪 悪感を感じることについて考えているとき,あなたの罪は罰を与えられることから本当にまもってくれるか(罪の感覚がそうあなたに「約束」した通りに),注意を傾けてください。ほとんどの感覚が私たちに 語りかける嘘のように,あなたの罪は逆の効果を生み出していると通常は気がつくでしょう。罪は自分自身を罰する事態を引き起こすのです。そして,もしあ なたの行為がほかの人をも巻き込んでいたら,罪が罰っせられることを防ぐなんて事は十中八九無理でしょう。それでもやはり,罪が外部からの懲罰を防ぐのだ と思えるのなら,刑務所が空き部屋ばかりになっていないのはどうしてでしょう?

永続している二番目の嘘は,罪というのはそれにより,なんであれ「悪い」行いを繰り返すことから我々を防いでくれる感情であるということです。しかしな がら,あなた,もしくは知っている人は,罪だと感じる何かを2回以上,行ったり,行ったり,考えたりしたことはないでしょうか?当然,あなたは繰り返した ことがあるでしょう。私たち全員が繰り返しています。罪は頻繁に,既に行った悪いことだと信じている事と,まったく同じ行為を,自分自身へ課した罰とし て,再び行うもしくは続ける誘引となります。罪は後で悔やむことになる行為を引き起こす大きな理由の一つです。

このようなことを考えてください。あなたは体重をコントロールするために,ダイエットしているとしましょう。クッキーを一枚,もしくはボール一杯のアイスクリームを取り出し食べてしまい,それに罪悪感を感じます。さて,あなたは何をするでしょうか?その通り。あなたは別のクッキーかアイスクリームを一すくい食べることで自分を罰します。今ではあなたは罪人のようにさえ感じます。すぐにでも,自分の無思慮に対する懲罰をエスカレートさせ,クッキーを一袋か500ccのアイスクリームを食べきってしまいます。あなたは多分,一口だけを楽しむなんて事を自分に許さないでしょう。よく聞く話でしょ?この減量を行う人に失敗をもたらす,少しは知られている現象によって,ダイエット業界は成長しました。

あからさまでなければ,無意識で行っていることは確かですが,すべての意思をそれを繰り返すことに傾けるという罪を,様々な方法であがなおうとする人々で,世界は満ち溢れているのは、これが理由なのです。

私は何も私たち全員,モラルや規律の取れた行動のガイドラインを無視し,自由奔放に,やりたいことを行うことを始めましょうと提言しているわけではありま せん。しかしながら,後悔する行為を止めるのを妨害しているのは罪の感覚ですから,私たちは罪から自由になるべきです。私たちが進んで罪と恥を開放すると き,そのメリットは途方もなく深く大きなものです!私たちはすべての時間とエネルギーを自分自身を罰するために費やす必要はありません。罪と恥から自由に なることが意味するのは,私たちがより良く,より健康になりために自由になること,より協力的な選択肢を選ぶことなのです。

罪が重大な役割を果たす、別の領域は、前にうけた虐待を乗り越えることができなくなるというものです。私たちが若いときに,私たちの両親,保護者,先生,もしくは精神的指導者が虐待を行うと,彼らの行うひどく間違ってい ることを私たちは受け入れることが難しいのです。私たちが若いとき,特に影響力のある親のような大人は途方もない力を持っていました。つまるところ,彼ら は食事,擁護と寝る場所,そして外の世界からの保護を与えてくれたのです。私たちはまだ一人では生きていけませんでしたから,大人の誤りを起こしやすい性 分は,直接的に自分の生存を脅かすものであると発見します。私たちは人生で,神々もしくは最低でも唯一神を代表する状態へ向け,大人へと成長し高みを上る ものであるはずです。それ故に,虐待が起ると,見つけることの出来る唯一の別の関係者へ,それは自分自身ですが,責めを負わせようとします。私たちはゆが んだ,想像上の自己保護の形態として,これを行うのです。

セドナメソッドのコースで,私はしばしば子供時代の虐待の生存者をワークすることがあります。なぜなら,生存者はしばしば,起こったことで自分自身を責 め,多くの罪を感じ,彼らが信頼していた大人が起こした間違いのため,人生全体を通して,自分自身を罰するからです。一度,罪の意識から解放され,大人の 虐待者の犯した間違いで自分自身を責めたり罰したりすることを止ると,感情的,精神的に,それと心深くに根ざしたトラウマのパターン,囚われていた恥の感 覚から,彼らは自分自身を自由にすることが出来るのです。