人の本然が幸福で全知全能、愛そのものであるなら、私たちは他の人全員、この実世界のすべてを愛していることになりますね。

本日、新潟は夜半から激しい雨が降っています。その音で目が覚めました。

そこで、静かにリリースし始めました。浮かび上がってきたものを、手放して行きました。

過去の好きだった人に注意が行き、手放していくうちに、ふと「なら、愛と愛着の違いは何か?」と思いました。愛はlove、愛着はattachmentです。

記憶を探っていくうちに、誰か・何かが嫌いと思ったり、そうしたことを表す行動をしたりしたときに、心のどこかに痛みや重さを感じていたことに気が付きました。

レスター博士のカルマについての話を思い出しました。カルマは行動でなく、思考の中にあり、それを見つけ、逆にすることで消えてしまうという話です。それと、博士は自分のリリースの途中で、過去の憎しみを愛に変えています。

ちょっと真似をしてみました。憎しみまで行かなくても、嫌いなものに愛の感覚を持ってみました。すると、確かに嫌いな感情は消え、愛の感覚は残ります。

でもちょっと違う感覚がありました。真逆なことを使って消したのではないとすぐ分かりました。

視点を変えました。この人は好き、これは好き、逆にこの人は嫌い、これは嫌い…とすると、今まで「誰かが好き」と思っていたのは、実は愛ではなく、愛着だったんだと気づきました。

どうして嫌いになるのかを探りました。すると、自分の過去の経験から来たパターンで、判断し、そう決めていることに気が付きました。すると、逆のパターンは?すきになるのは?

これも、過去の経験、経験からできたパターンから発生していました。

嫌っている感覚、憎悪を愛という反対の概念で消したわけではなかったようです。今回はただ単に今まで嫌っていた対象をそのまま受け入れたから、感覚が消えたんです。憎悪に愛着をぶつけても、複雑になり固執してしまうことはあれど、消えはしないでしょう。

すると、今まで自分で愛だと思っていたのは、実は「愛着」であったんだと気が付きました。この視点で、もう一度過去を探ってみました。やっぱり、そうです。愛着だったんです。

最初は全てに愛を感じています。愛は幸福です。何かに対する人生の最初の頃の感覚は愛でした。感情のレベルで言えば、平和と受容です。

なのですが、段々と経験を積み、賢くなるにつれ、こういうものは好き、こういうものは嫌いとパターンで判断するようになってきます。

たぶんキリスト教形式で結婚するときに誓う永遠の愛の誓いは、実は永遠の「愛着」の誓いなんですよ。大抵の場合。だから、長続きしない。なぜ、長続きしないかといえば、本当の愛ではないから。愛着だからです。

誰か何かを好きなときは、それに取り付かれている感覚なのです。

誰か何かを嫌いなときに、後ろで感じる抵抗は、それに対して持っている本当の愛の感覚とそぐわないからです。

愛は受容です。それで平和でいて、私たちの本然ですというレスター博士の考えが実感できました。全ては、単純でした。

愛するためには何かをする必要はなく、ただそのまま受け入れ、幸福でいればいいんですね。なるほど。実感しました。